所要時間/約35~40分(約22km) © IZUMO KANKOU ASSOCIATION. 貸出時間/8:30〜16:30 羽田—出雲便の1便と2便に合わせ運行します。(1日2便のみ) 仕事も頑張りながらのブログ作成を行っています。 社寺詳細はこちら. 編集, 2016-10-02 19:35  大国主大神は出雲王朝を繁栄させるという偉業を成し、多くの女神と結婚してたくさんの子供をもうけました。大国主大神が縁結びの神様と言われる由縁でもあります。, 毎年多くの参拝客が訪れる出雲大社。本殿へは周囲どこからでも向かう事ができますが、正門からの正式な参拝方法をご紹介します。, 大きな石碑とともに立つ高さ8.8m、横幅12mの鋼管製の大鳥居。ここが出雲大社の正門でこの先から参道が始まります。神門通りの入り口にある宇迦橋の大鳥居から出雲大社本殿までは合計4基の鳥居があり、ここは二の鳥居。, 出雲大社の参道は全国でも珍しい下り参道。参道の右手に心身の穢れを祓い清める四柱の祓戸神(はらいどのかみ)を祀る祠があるので、神前に至る前にここで身を清めます。, 祓橋(はらえのはし)を渡り三の鳥居をくぐると、日本の名松100選に選ばれている見事な松並木が続きます。参道は中央と両側の三つに分けられ、中央は神様の通り道ということで、昔は神職や皇族の方以外は通行できませんでした。現在は松の根の保護のために中央は通行できないので、端を歩きます。, 境内の入り口手前、右手には出雲大社の主祭神、大国主大神の「ムスビの御神像」、左手には「御慈愛の御神像」が見えてきます。, 神域である「荒垣」内に入る前に、ここで手と口を清めましょう。 ※『日本書紀』では天日隅宮(あめのひすみのみや)と表記, 現在の本殿(国宝)は延享元年(1744)造営されたもので高さは約24mですが、出雲大社の社伝によれば、太古の時代、出雲大社本殿の高さは現在の4倍、約96mあったということです。 縁結びの神様として名高く、神話のふるさと出雲を象徴する出雲大社。その歴史や参拝方法などを、詳しくご紹介いたします。, 参拝可能時間/6:00~20:00 Copyright © 出雲大社の歩き方 All Rights Reserved. 料金/約3,500円 ※あくまでも目安です。, http://www.ichibata.co.jp/bus/rosen/taisha.html, 【料金】 宝物殿/大人300円、大学・高校生200円、中・小学生100円、幼児無料. 出雲大社をはじめとする全国各地の神社には必ず神様の依り代が祀られています。それは鏡であったり、刀であったりしますが、実は出雲大社の御神体は正体不明!!でもそんな正体不明の御神体を見てしまった人も過去にいたのだとか。 出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県 出雲市大社町杵築東にある神社。 祭神は大国主大神。 式内社(名神大)、出雲国 一宮で旧社格は官幣大社。 神社本庁の別表神社。 宗教法人 出雲大社教の宗祠。. 御守所 6:00~20:00 料金/約7,000円 ※あくまでも目安です。, 出雲市駅行きの空港連絡バスは、各便到着時刻から約10分後出発予定です。 出雲大社(いずもおおやしろ 、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県 出雲市大社町杵築東にある神社。 祭神は大国主大神 。 式内社(名神大)、出雲国 一宮で旧社格は官幣大社 。 神社本庁の別表神社 。 宗教法人 出雲大社教の宗祠。 出雲大社御玉串は大国主大神さまの御神威を拝礼祈念する御璽(みしるし)である、とされています。ですので、厳密に言えば御分霊ということではありません。 お札を通じて神さまとつながる、という感じに思うのがよいでしょう。ただ、お祀りする人の感覚としては、お札に神霊が宿られ� なぜ出雲大社はこのように大和系神社とは違うのか!?まずは建築様式について詳しく解説してみましょう。, 他にも流造、八幡造、住吉造、春日造など様々ありますが全てこの2つの建築様式から発展したものです。, お米などの穀物を保管する倉庫から発展した建築様式であり、最大限収納出来るように部屋内に柱などの障害物がない。, 出雲大社に代表される建築様式。入口は屋根が妻になった側に付いているため「妻入り」と呼ばれる。, 住居から発展した建築様式である。屋根を伝い落ちてくる雨水が、建物に出入りする人にかからないようにするため妻入りが採用されたと考えられています。, 神社や神棚は一般的に東か南を向いています。出雲大社の御本殿入口は南を向いている為、御神体は必然的に西向きになります。, しかし、住居の構造を神社用に改造する事なく、なぜそのまま用いたのかという疑問は残ります。, 神社とは神様にお祈りする為の建築なのに、神様が参拝者の方を向いていないというのは理に叶いません。。, この神社がなぜこの建築様式を選ばれたのか、その理由を考えずに自分勝手な参拝ルールを選ぶのはご利益信仰が蔓延した結果と見えます。, 祈願の仕方を忘れた日本人は、西洋と同じやり方で、神様に愚痴や懺悔や願いをいきなりお伝えしています。, 願いごとをするからには、自ら名乗り、日々の感謝を伝えて、次の目標に向かう決意をする、そして神様のご神徳の範囲で援助をお願いするのです。, 大国主命が西を向いている本当の理由は誰も分かりません。それどころか、御本殿のまわりに巡らされた二重の垣根の意味もわかりません。, ご縁結びブームと大国主命への篤い信仰は決して悪いことではありませんし、地元民としては大変有り難い事です。, しかし、観光のネタづくりのために伝統を変えることには、慎重になった方がいいと感じています。, 西から拝みましょうという流れは、誰がいつから言い出したのでしょうか。。。?それも謎です。. 兵庫県北部の山陰は但馬に生まれて半世紀以上が過ぎました。「市郎右衛門」は実家の名跡です。室町時代からの旧家に生まれたことで、歴史や日本文化への興味は潜在的に持っておりましたが、会社でのストレスから二度にわたる休職を余儀なくされたことで、ストレスのない生活を求めて寺社仏閣巡りを始めました。会社勤めでストレスを感じておられる皆さんが、寺社仏閣や史跡・城跡を巡る私のブログの中で、日本の歴史や文化に触れていただき、少しでもストレスのない平穏な日常を過ごていただけたら嬉しいです。「天空の城・竹田城」の写真は朝来市許可の元掲載しています。写真提供は【吉田利栄さん】です。. 出雲大社の御神体 は、 やはり出雲に関係するものですよ ~Ψ( ̄∇ ̄)Ψ 有難いことに、宮司の横屋さんと一時間近くもお話させて頂きました。 宮司さんとはFacebookでもお友達に成って頂き、出雲の歴史を御教授頂いて居りますm(__)m。 出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。, 二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。, 古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある(前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。, 一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている。島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している。, 出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。, 出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。, 以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。, また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。, 出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。, やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた(本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。, さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。, ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。, 祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている。, 1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。, そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。, 創建以来、天照大御神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたとされるが、本来出雲国造家は東出雲の熊野大社の社家であった。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後に太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任。翌年、神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。, 出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した。その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。, 以上のように大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。, 1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している。, 玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。, 本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになる。上古については流石に神話と看做すとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈≒45m)や平安京大極殿より大きかったということになる。, この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた『口遊』で数え歌に歌われていることが論拠に挙げられる。これは「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」というもので、「雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。」を元にしている。ただし異論として。その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順を著しているとの説や、複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっていること(『百錬抄』『左経記』『千家家古文書』『中右記』『北島家文書』などの記述によれば、平安中期から鎌倉時代初めまでの約200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられている。上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある。一方で、前述したように明確な文献が『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説や後述するプロジェクトなどで想定している「山」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事が入ることなどめっそうもないといった点が否定要素である。, 建築学的な可能性としては、福山敏男と大林組によるプロジェクトにより検討され、書籍『古代出雲大社の復元』(学生社、初版1989年)として出版されている。, 2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設に伴う事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりもした。結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いと分析されている。ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍もある。, 2017年(平成29年)にリニューアルオープンした展示施設「神祜殿」では、出土した柱や、高い位置にある本殿と地上を長い階段でつないだ古代の姿の想像模型が展示されている。, 2008年(平成20年)の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われており、2013年(平成25年)5月には御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行われた(平成の大遷宮)。出雲大社の遷宮は概ね60 - 70年毎に行われている。, 出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。日供祭は通常どの神社でも朝と夕に神様に食事を差し上げる祭りをやるのだが、出雲大社では毎日宮司が自らこれを行う建前である。大概の神社では当番で一人にて奉仕するものであるが、出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い、宮司が7~8人の神職を従えて奉仕するのが基本である。ただし実際には、しばしば代理の神職により奉仕される。, 出雲大社には琴板(こといた)という楽がある。杉板製で、長さ約79センチ、幅約24センチの箱型を呈するもので、裏側に約11センチの穴があいている。弦は張ってなく、約71センチの柳の枝の撥で打って演奏する。的射祭、古伝新嘗祭、国造百番舞、国造三番舞で奏でられる。タマフリ、タマシズメの意味などがあるという。非常に原始的な古い楽器で重要である。, 祭事では、出雲笛(いずもぶえ)を用いる。献饌時には「フルヘユラトフルヘ」と吹くが、これは「布瑠倍由良止布瑠倍」であり、十種神宝に由来する。出雲笛は竹製桜皮巻の横笛で、出雲地方で作られ、実に神秘的な音色を奏でる。, 1953年(昭和28年)5月27日深夜1時10分、火の不始末により鑽火殿から出火(1時40分撮影), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=出雲大社&oldid=79273779, 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』, 縁結神(えんむすびのかみ)、福神(ふくのかみ)、天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)、大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名。, 第三十一代千国国造の時代から、地方政治の面から退き、祭祀のみ携わる事になる。これより国造新任時や遷都時には朝廷へ参向し、天皇の大前にて神賀詞を奏上する。, 大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) - 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・, 伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) - 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った, 神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) - 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で, 門神社(もんじんのやしろ) - 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。, 氏社(うじのやしろ) - 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。, 十九社(じゅうくしゃ) - 東西に2つあって八百万神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。, 大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) - 式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920), 大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) - 式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、, 上宮(かみのみや) - 素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北), 出雲井社(いずもいのやしろ) - 岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免), 野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) - 参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖, 江戸時代の初期建築だったが、上記の1953年(昭和28年)5月27日の火災で延焼し、拝殿とともに姿は消えてしまった。再建工事は、建築家, その後、コンクリートの亀裂など老朽化が進み、安全上問題があるとして建て替えになることが決まった。この決定に対しては2016年(平成28年)3月に, 出雲大社本殿(附 内殿1基、棟礼1枚)(建造物) - 江戸時代、1744年(延享元年)の造営。1900年(, 太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵) - 鎌倉時代中期の作、豊臣秀頼の寄進。1909年(明治42年)9月21日指定。, 紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(元弘3年)。1935年(昭和10年)4月30日指定。, 紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)(古文書) - 鎌倉時代、1249年(宝治2年)。1935年(昭和10年)4月30日指定。, 紙本金地著色舞楽図 6曲1双(絵画) - 1972年(昭和47年)3月31日指定。, 杵築大社舞楽用具 101点(工芸品) - 江戸時代。1974年(昭和49年)12月27日指定。, 出雲大社并神郷図(絹本著色) - 国の重要文化財(古文書)。個人所有。鎌倉時代。1972年(昭和47年)5月30日指定。, 天地の初発-修理固成、美斗能麻具波比、禊祓、三貴子、大国主大神の御神系(『古事記』上)。, 御修練-手間山焼石の御難、如矢の御難、蛇の室の御試練、大野の鏑矢の御試練、八田間の大室屋の御試練(『古事記』上)。, 国土経営の大業-国つくりの大任、八十神を平け給ふ(『古事記』上)。成れる所・成らざる所(『日本書紀』神代上)。国づくり(『古事記』上、『出雲国風土記』出雲神戸の条、『播磨国風土記』上鴨里の条並びに米更岡の条、『, ご縁横丁 - 2012年(平成24年)8月31日に出雲大社前にオープンの土産物販売の横丁。.

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