史記『完璧帰趙』 このテキストでは、史記の一節『完璧帰趙』の「於是、王召見、問藺相如曰〜」から始まる部分の 原文(白文)、書き下し文、現代語訳(口語訳)とその解説を記しています。 ※十八史略の『完璧』とは異なるので注意してください。 相如顧召趙御史、書曰、 左右皆靡。 左右欲刃相如。 秦王怒りて許さず。 相如顧みて趙の御史を召し、書して曰はく、 「王行かずんば、趙の弱くして且つ怯(けふ)なるを示すなり。」と。 藺相如亦曰、 「某年、月、日、秦王は趙王のために缻を打つ。」 google_ad_client = "pub-1556656149870854"; 相如従ふ。 藺相如前みて曰はく、 秦の御史前(すす)み、書して曰はく、 是(ここ)に於いて、秦王懌(よろこ)ばざるも、為(ため)に一たび缻を撃つ。 趙王瑟を鼓す。 秦趙を伐(う)ち、石城(せきじょう)を抜く。 明年、復攻趙、殺二萬人。 趙王は秦をおそれて行こうとしなかった。 そこで、秦王はしぶしぶ趙王のために缻を一回叩いた。 秦王は酒宴が終わるまで、ついに趙を屈服させることができなかった。 そこで相如は進み出て缻を差し出し、ひざまづいて秦王にお願いした。 Copyright ©株式会社M&Cメディア・アンド・コミュニケーション All Rights Reserved. 「某年月日、秦王為趙王撃缻。」 遂に秦王と澠池に会す。, 秦王酒を飲み酣(たけなは)にして曰はく、 /* 336x280, 作成済み 11/07/04 */ google_ad_slot = "6672043225";http://mc-jpn.com/wp-admin/media-upload.php?post_id=5842&TB_iframe=1&width=640&height=784 王許之。 史記『刎頸之交』 このテキストでは、史記の一節『刎頸之交』の「既罷帰国〜」から始まる部分の原文(白文)、書き下し文、現代語訳(口語訳)とその解説を記しています。 ※『刎頸之交』は、『澠池之会』で秦との会談を終えた趙の一行が、帰国した後 秦王怒不許。 藺相如もこう言った。 相如従。 「欲与王為好、会於西河外澠池。」 秦王缻を撃つことを肯(がへん)ぜず。 請奉盆缻秦王、以相娯楽。」 「寡人窃聞趙王好音。 趙王鼓瑟。 藺相如も亦た曰はく、 趙亦盛設兵以待秦。 相如は言った。 明年、復攻趙、殺二萬人。 訳者口上頭から順に訳し進むつもりですが、リクエストがあれば先に訳す、かも。本紀五帝本紀第一黄帝 顓頊 帝嚳 帝堯 帝舜 太史公曰夏本紀第二帝禹 殷本紀 周本紀 秦本紀 秦始皇本紀 項羽本紀 高祖本紀 呂太后本紀 孝文本紀.. 三十日不還、則請立太子為王、以絶秦望。」 秦王不肯撃缻。 「王と好(よしみ)を為(な)し、西河の外の澠池に会せんと欲す。」と。 「(趙)王との親睦を深めるため澠池で会合を持ちたい。」 彼らは皆たじろいだ。 Copyright© 三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書 , 2020 All Rights Reserved. 「某年月日、秦王趙王の為に缻を撃つ。」と。 趙王遂(つい)に行く。 左右皆靡(なび)く。 廉頗(れんぱ)・藺相如(りんそうじょ)計りて曰はく、 google_ad_width = 336; 「趙の十五の城で献じて、秦王の長命を祝福してくれまいか。」 史記『澠池之会』 ここでは史記の中の『澠池之会』の「秦王使使者告趙王〜」から始まる部分の書き下し文、現代語訳(口語訳)とその解説を行っています。書籍によっては「廉頗と藺相如」の中の一節とするものもあるようです。 ※十八史略のものとは異なるので注意 どうか瑟を演奏してもらいたい。」 於是、秦王不懌、為一撃缻。 王之を許す。 「趙王窃聞秦王善為秦声。 「私はひそかに趙王が音楽好きだと聞いております。 秦の群臣曰はく、 相如曰、 藺相如亦曰、 「請以秦之咸陽為趙王寿。」 秦王竟酒、終不能加勝於趙。 趙亦盛設兵以待秦。 秦不敢動。 (廉頗藺相如列伝) <書き下し> 澠池(めんち)の会. 「王がお出かけになりませんと、趙が弱くしかも卑怯であることを示すことになります。」 「寡人窃(ひそ)かに趙王音を好むと聞く。 廉頗送至境、与王訣曰、 相如張目叱之。 「請ふ趙の十五城を以て秦王の寿を為せ。」と。 秦不敢動。 趙もまた軍隊を盛んにして、秦に備えた。 三十日にして還らずんば、則ち請ふ太子を立て王と為し、以て秦の望みを絶たん。」と。 秦王酒を竟(を)ふるまで、終(つひ)に勝ちを趙に加ふること能はず。 是(ここ)に於いて、相如前みて缻を進め、因りて跪(ひざまづ)きて秦王に請ふ。 趙も亦盛んに兵を設け以て秦を待つ。 三十日たってご帰還なさらないときは、どうか太子を王位におつけし、秦の野望を絶たせてほしく思います。」 「私と大王との距離はわずか五歩でしかありません。どうか、私の首を切ったときに流れ出る血を大王に注がせてほしい。(=自分の身を犠牲にして秦王を殺害しようという強固な意志を表す言葉)」 趙王畏秦、欲毋行。 「王不行、示趙弱且怯也。」 相如目を張りて之を叱(しつ)す。 秦王は怒り、許さなかった。 趙王遂行。 「某年、月、日、秦王は趙王と会食し、趙王に瑟を演奏させた。」 秦王は缻を打つことは承知しなかった。 廉頗送りて境に至り、王と訣(けつ)して曰はく、 「請以秦之咸陽為趙王寿。」 訳者口上頭から順に訳し進むつもりですが、リクエストがあれば先に訳す、かも。本紀五帝本紀第一黄帝 顓頊 帝嚳 帝堯 帝舜 太史公曰夏本紀第二帝禹 殷本紀 周本紀 秦本紀 秦始皇本紀 項羽本紀 高祖本紀 呂太后本紀 孝文本紀.. 出典:『史記』 廉 ( れん ) 頗 ( ぱ ) 藺 ( りん ) 相 ( しょう ) 如 ( じょ ) 列伝; 解釈:完全でまったく欠点のないこと。原義は、借りた物を傷つけず無事に返却すること。趙の恵文王が楚から入手した 和氏 ( かし ) の 璧 ( へき ) という宝玉を秦の昭王が欲しがり、十五城と交 google_ad_client = "pub-1556656149870854"; /* 468x60, 10/11/03 */ google_ad_slot = "4080797539"; google_ad_width = 468; google_ad_height = 60; の正殿で会わなければならない。, 甚 … 「はなはだ~」と読み、「ひどく~」「ひじょうに~」「ふかく~」と訳す。, 戯弄 … 戯れもてあそぶ。愚弄する。, 復 … 「また」と読み、「もう一度」「再び」と訳す。, 必 … ここでは「どうしても~ならば」と訳す。, 欲急臣 … 私に危害を及ぼそうと思うのならば。, 与 … 「と」と読み、「~と」と訳す。「A与B」の場合は、「AとB, 倶 … 「ともに」と読み、「そろって」「両方とも」と訳す。, 矣 … 置き字。訓読しない。断定の意を示す。. 秦の記録官が進み出てこう書いた。 相如は振り返り趙の記録官を呼びこう書かせた。 趙王秦を畏れ、行くこと毋(な)からんと欲す。 そして秦王と澠池で会った。, 秦王は酒を飲み、酒宴がたけなわになるとこう言った。 秦王使者をして趙王に告げしめ、 秦之群臣曰、 google_ad_height = 280; 秦王は使者を送り趙王にこう告げさせた。 「五歩之内、相如請、得以頸血濺大王矣。」 「某年月日、秦王与趙王会飲、令趙王鼓瑟。」 (すると)藺相如は進み出てこう言った。 スポンサーリンク (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 春秋戦国時代を題材にした漫画であるキングダムでは、根っからの武人として描かれています。, しかし、史記の廉頗を見ると、平原君が死亡した後に、趙の相国になった記述もありますし、政治にも大きく関係した事が分かっています。, 史記にも、廉頗藺相如列伝があり、廉頗と藺相如の刎頸の交わりを中心に書かれています。, 余談ですが、廉頗藺相如列伝の中に李牧の事や趙奢が胡傷を破った閼与の戦いも記載があるわけです。, 尚、廉頗はかなりプライドが高い部分が見え隠れしていますし、王族か貴族の出身ではないか?と考える人もいます。, この前年が、燕の昭王と楽毅が燕・趙・魏・秦・韓の合従軍を結成して、済西の戦いで斉を破っています。, 楽毅率いる燕軍だけが斉に残り、斉の首都である臨淄を陥落させたり、各地を平定したと史記には記載がありました。, この時の合従軍に、趙軍の司令官として廉頗がなり、楽毅を助けて斉を討ったことも十分に考えられるでしょう。, 主君である恵文王は、主父(武霊王)が後継者争いの失敗で餓死した後に、若くして位に就いています。, その後、李兌などが亡くなった事で、廉頗などの将軍を任用できるように、なったとする専門家もいます。, 趙の宮廷では、揉めるわけですが、宦官の頭である繆賢(びゅうけん)の家臣である藺相如が使者になる事に決定します。, 趙人の多くは藺相如は死んで帰ってくると考えていたわけですが、藺相如も無事に帰って来たわけです。, 秦の昭王に対して、堂々とやり合った事が恵文王の耳に入ると、大いに気に入り上大夫となり大臣の末席を与えています。, 秦は虎狼の国とも呼ばれていますし、楚の懐王は武関で秦の昭王と会合を開きますが、捕らえられて幽閉され死亡しています。, 最初、恵文王は難色を示しますが、藺相如が「行かなければ趙の弱さを秦に見せる事になる」と説得します。, 「30日経っても邯鄲(趙の首都)に戻らぬ時は、太子を立てて秦の野望を砕こうと思います」, 恵文王は、内政重視の王様なわけで、「許す」と言ったわけですが、廉頗に対して少し不信感を抱いたかも知れません。, 黽池の会では、秦の昭王は、趙の恵文王をやりこめようとするわけですが、その度に藺相如に阻止されてしまいます。, 無事に会見を終えて邯鄲に戻った恵文王は、藺相如を知勇兼備の名臣として認め上卿の位を授けました。, それも、陰口ではなく、堂々と「あいつにあったら辱めてやる」「あいつは卑賎の出だ。」「俺はあいつが気に入らない!」と誰彼構わず言ったとされています。, 廉頗は戦場で数多くの功績を建てたのに、外交という口先だけで恵文王に親任された藺相如が気に入らなかったわけです。, 藺相如が廉頗と顔を合わせなかった理由は「私情よりも国家を大事にしたいから」という思いがあったからです。, 藺相如と廉頗が争ってしまえば、趙は滅びてしまうと感じたから、顔を合わせないように気を付けていました。, すると、廉頗は「自分はなんて浅ましい愚かな男なんだ」と悟り、人を介して藺相如に面会を求めます。, 廉頗は「ここにいる卑賎の者(廉頗)は、あなた(藺相如)の寛大なお心に反する事をしてしまいました。」と謝罪したわけです。, 廉頗と藺相如が元気なうちは、秦も趙に手を出す事が出来なかったと、史記に記載があります。, この時に廉頗は「閼与への道は険しくて救援は困難を極める」と主張して、援軍を出しても助ける事が出来ないと主張します。, 百戦錬磨の廉頗が救援が難しいと言っているのに、税務長官が勝ち目があると言うのです。, しかし、廉頗が趙奢に対して悪口を言った記録も残っていないので、藺相如と同じ失敗はしなかったようですw, ちなみに、廉頗以外の二人は最初から凄く人間が出来ている気がするのは、気のせいでしょうかw, 趙の恵文王は、武霊王よりも領土は縮小してしまいましたが、様々な名将が活躍した事で大きな過失は起こしませんでした。, よく考えてみれば恵文王には、廉頗、藺相如、趙奢、楽毅(燕から亡命)、田単(斉から移って宰相となる)がいたわけです。, これだけの人材が集まるわけですから、恵文王は地味なようで、人を惹きつける魅力があったのでしょう。, 韓はヒョウタンの形をした領土だったのですが、中部にある野王が陥落した事で、北部と南部の領土が切れてしまいました。, 韓では、秦からの奪還は不可能だと考えて、秦に北部の上党郡を割譲すると言った訳です。, しかし、上党郡の太守である馮亭は、土地をタダで秦にやるのは惜しいと考えて、趙に内密に上党郡を譲渡すると約束します。, 趙の宮廷では、貰い受けるかどうか決めかねたわけですが、結局は平原君(趙勝)の言葉が採用されて、受け取る事になりました。, 1つめは、秦の軍は遠征軍になるので、どうしても兵糧関係などの物資が不足しがちです。, 秦軍が疲労するのを待ち、引いたところを攻撃するか、疲労がたまり兵士が動けなくなったところを攻撃する策です。, これは籠城戦ではよくやるパターンですし、三国志の劉備なども夷陵の戦いで疲れが出た所を陸遜に攻撃を仕掛けられて大敗しています。, 秦と趙が睨みあっているうちに、魏や楚などの国が秦に侵攻をしてくれれば、秦は本国が心配になって兵を引くでしょう。, しかし、即位して喪が明けたばかりの孝成王と、老獪な秦の昭王と范雎に経験値の差が出てしまいます。, 趙の虞卿は魏や楚に使者を入れて、合従の同盟を成立した所を見せてから、秦に和平を結ぶ提案をします。, 尚、やる気を無くして職場放棄したという選択肢も、私が指揮官であれば考えられますが、廉頗は流石にそういう事はないと思われますw, 城に籠ってばかりいる廉頗をみて孝成王は「なぜ戦わないんだ!」と顔色が悪くなっていきます。, さらに、秦からの間者で「廉頗は年老いた。秦が本当に恐れているのは趙括(趙奢の子)が将軍になる事だ」という情報が入ってきます。, 藺相如は、この時に重病でしたが、廉頗が将軍を解任されてしまったら、趙軍は間違いなく大敗すると思ったのでしょう。, 元気な時の藺相如であれば、孝成王を一喝したはずですが、重病だった事もあり引いてしまいます。, さらに、趙括の母親が、趙括は趙奢と比べて部下に対しる接し方などが全く出来てない事を、理由に将軍にしないように言いに来ます。, 秦も白起を将軍にして、長平で戦わせたわけですが、名将である白起に頭でっかちの趙括が勝てるわけもなく大敗を喫しています。, この時に、趙は40万人を生き埋めにされるなど、壊滅的な打撃を食らってしまったわけです。, その後、首都である邯鄲を囲まれますが、平原君や信陵君、春申君などの活躍により滅亡は逃れています。, 長平の戦いで解任されてしまうと、廉頗の威勢が衰えてしまい食客などは、去ってしまったと言われています。, 廉頗は去ってしまった客人達が戻って来た時に「客人達よ帰ってくれ!」と追い出そうとしました。, 客人達は「あながた権勢があれば私たちは集り。権勢が無くなれば去るのが世の中の常です。何を恨む必要がありましょうか?」この様に言い放ったとされています。, 死友ともいえる藺相如が長平の戦いの直後に亡くなってしまったのが、一番悲しかったのではないかと思いました。, しかし、長平の戦いの孝成王と廉頗は、孫子の言う君主と将軍の関係の難しさでもあると思いました。, しかし、燕に戻ると「趙の壮年たちは長平で死んでしまいました。孤児は、まだ青年になっていませんから。今、攻撃を掛けるのがよいでしょう」, 祝いに来たはずの、栗腹がなぜ国に帰ったら攻撃を掛けるように進言したかは、いくつかの説があります。, どちらかは分かりませんが、栗腹が趙を攻撃するように進言した事は間違いないでしょう。, 趙は四方に敵を抱える国であるから、兵が強く戦っても勝つのは難しいと進言したわけです。, しかも、燕王喜は、「5の兵で1を倒す」と言い自らも戦場に行くと言い出したわけです。, 将渠は、力づくで止めようとしますが、燕王喜は将渠に蹴りを入れて獄に繋いでしまいました。, ただし、東周列国志によると、廉頗が北方の長官をしている李牧を推薦して、李牧が廉頗の副将として慶秦を迎え討ったことになっているのです。, キングダムファンや歴史好きな人にとってみれば、廉頗と李牧が戦場に行くと言うのは夢のコラボとなるでしょう。, 燕は和睦を申し入れるわけですが、条件として獄に繋がれている将渠を燕の宰相に任命する事としました。, 燕王喜は、将渠を好いてはいなかったようですが、仕方なく宰相とし趙に城を5つ与える事で和睦が成立します。, 和議が成立したのに、なぜ廉頗が攻めたかですが、一説によると燕王喜は趙軍が去ると、さっさと将渠を解任してしまったからだともされていますw, 悼襄王は、太子だった頃より廉頗を嫌っていたのか、将軍の地位を取り上げて楽乗に与えています。, 廉頗の方も趙に戻って軍隊を指揮したいと思っていたようで、かなり乗り気だったわけです。, その時に廉頗は馬に乗って駆け巡り、大量のご飯を食べるなど健在振りをアピールします。, しかし、使者は廉頗と犬猿の仲であった、趙の佞臣である郭開に買収されていたわけです。, その事から悼襄王には「廉頗は食べる方は大丈夫でしたが。トイレに3度行った」と悪意の報告をしたとされています。, 後にですが、王翦、羌瘣(きょうかい)、楊端和(ようたんわ)と李牧、司馬尚で趙都・邯鄲で秦と趙の最終決戦を行っています。, この時に、郭開は秦に買収されていて、李牧が謀反すると趙の幽穆王に讒言したわけです。, もしかして、キングダムでも楚の項燕と昌平君を破り、楚王負芻(ふすう)を捕らえた時に、廉頗が出て来る可能性もあるでしょう。, しかし、自分の非を悟った時は、素直に藺相如に詫びを入れに行く姿勢は見事だと思いました。, 高齢になっても生き残る事が出来た事を考えれば、さっぱりした性格で部下の兵士に対しては人望があったのではないかと思われます。, それを考えれば、廉頗は人望が厚いから部下にも裏切られずに生き残れたのだと言えるのではないでしょうか?, しかし、悪いと思えばちゃんと謝ったりする辺りは「いい奴」なんじゃないかなと個人的には感じました。, ただし、私のような腐れ儒者みたいな男が廉頗の前にしゃしゃり出てしまったら、有無を言わさずに一括される可能性もあるでしょうw. // ]]> 秦伐趙、抜石城。 秦王の側近たちは相如を刃にかけようとした。 廉頗・藺相如計曰、 秦敢へて動かず。, 秦は趙を攻め、石城を攻め落とした。 秦御史前、書曰、 史記『澠池之会』 ここでは史記の中の『澠池之会』の「秦王使使者告趙王〜」から始まる部分の書き下し文、現代語訳(口語訳)とその解説を行っています。書籍によっては「廉頗と藺相如」の中の一節とするものもあるようです。 ※十八史略のものとは異なるので注意 遂与秦王会澠池。, 秦王飲酒酣曰、 「某年月日、秦王趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ。」と。 秦の群臣は言った。 (そこで)趙王はとうとう行くことにした。 「五歩の内、相如請ふ、頸血を以て大王に濺(そそ)ぐことを得ん。」と。 趙王は瑟を弾いた。 [CDATA[ 請ふ盆缻(ぼんぶ)を秦王に奉じ、以て相(あ)ひ娯楽せん。」と。 「趙王窃かに秦王善く秦声を為すと聞く。 秦王竟酒、終不能加勝於趙。 相如は(側近たちを)目を張って叱りつけた。 秦王使使者告趙王、 相如は(趙王のお出ましに従い)お供をした。 廉頗も(趙王のお出ましを)お送りし国境に至ると、(趙王と)訣別してこう言った。 明年、復攻趙、殺二萬人。 請奏瑟。」 王はこれを許した。 5月 21, 2014 by kanbunjuku // コメントは受け付けていません。. 「趙王はひそかに秦王が秦の音楽に堪能だと聞いております。 左右相如を刃せんと欲す。 請ふ瑟を奏せよ。」と。 どうか盆缻を秦王に捧げますので、お互いに楽しみあいたいと存じます。」 於是、相如前進缻、因跪請秦王。 藺相如前曰、 「(今回の)王のお出ましの旅程を計算してみますと、(秦王との)ご対面が終わって帰還なさるまで、三十日を過ぎることはないでしょう。 秦は(行動したくても)行動することができなかった。, . 「秦の咸陽(=秦の都)を献じて、趙王の長命を祝福してほしいものです。」 「王行、度道里、会遇之礼畢還、不過三十日。 廉頗と藺相如は相談して(趙王に)こう言った。 翌年、再び趙を攻め、二万人を殺した。 史記にも、廉頗藺相如列伝があり、廉頗と藺相如の刎頸の交わりを中心に書かれています。 余談ですが、廉頗藺相如列伝の中に李牧の事や趙奢が胡傷を破った閼与の戦いも記載があるわけです。 ここでは、史実の廉頗の実績を中心に紹介します。

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